もうずっと長いこと重めの要介護状態である母を実家で自宅介護していいます。
数年前母が要介護となったとき僕は離職や転職をして地元に戻ることを考えたんだけど、父と、その当時はまだ自我のあった母とからそれだけはやらないでほしいと言われ、中途半端に男が居たってたいして役にも立たないのだからと追い出されるようにしてまた地元を離れて東京に戻り、それ以来自分だけ好きなように暮らしていました。
実家からは介護に関する細かい情報が逐一届くわけでもなく、東京で暮らして実家から足が遠のいているうちに母の認知症は進行してやがて母の人格は失われ、次に実家に帰ったときには母とはもう会話が成立せず、母という人格と対話する機会は僕の知らないうちに永遠に失われていました。
ただ生きているだけとなった母の世話に、妹と姉はもう数年間自分たちの生活を奪われ続けていて、そこに対する思いは当然皆色々とあって、もう内心終わりを望んでもそれを口に出すこともできない状態で結構な時間が経ちました。
一見すると家族一丸となって献身的に尽くす理想的な家庭のように見え、実は母という楔がなくなったら途端に離散してしまいそうな、そんな家族にいつのまにかなっていました。
ここまで書いたことは父にがんが見つかって、手術に向けて介護の手も足らなくなるから帰って来てくれと言われ、実家に滞在して初めて知ったことでした。
父にがんが見つかったのは昨年の暮れ、若い頃の大量の喫煙が原因と思われる肺がんでした。
進行の度合いは大したことないけれど、腫瘍がちょうど肺のいくつかの部屋にまたがる気管の半ばにあり、位置を考えると運が悪かったらすぐにでも死ぬ可能性はあるし、腫瘍がもう少し大きくなるとその確率はどんどん高くなるとのことで、要はすぐに手術しなければ数ヶ月のうちに死ぬ、という状態であることがわかりました。
ただし、年齢、現在の肺の状態、父の身体機能などを考えると手術の成功率はやや低く、死なないまでも一生補助呼吸器が必要で、常時ボンベを引いて歩くような生活になる可能性が高い、と言われました。
それでも、生きていられるならばと、母より先に自分が死ぬわけには行かないだろうという一心で父は手術を決断して、幸いとても優秀な医師に担当してもらうこととなり、その方々の尽力もあって手術は医師たちが驚くくらいの信じられないレベルで成功し、父自身も肺の5分の2を失いながらも厳しいリハビリに耐えて、現在ではほぼ手術前と同じ生活を取り戻しました。
とは言え、父の年齢で手術を経験するということは体力的に階段を一段降りるくらいの劣化が一気に進んで、そしてそれが戻ることはないわけで、母に加えて父も、目を離せる対象ではなくなりました。
シフトを決めて常に誰かは実家に待機するようなシフトにして、なんとかやり過ごす日々の中で、母が何度か、もう駄目ではないかという瞬間がありました。
医師の見立てだともうとっくに限界は超えていて、なにが起きてももう治療は必要ないし、朝起きたら既に亡くなっているということも普通にあるので覚悟しておいてほしい、とのことでした。
それを言われて、やっとこの生活にも終わりがくるのかもしれないとひどい期待をして、その告知からすでにもう一ヶ月以上が経とうとしています。
こんな中途半端な、でも大変な日々が、終わりがいつ来るともしれず淡々と続くのかと思うと、ときどき叫びたくなります。
仕事と母の介護の両輪で、趣味を楽しんだりする時間は基本皆ありません。
僕はまだ半年ちょっとですが、妹と姉はこの生活をもう7年以上続けています。
それは正しい選択だったのか、早い段階で母をしかるべき施設に預けて、子どもたちがちゃんと自分の生活を送ることのほうが母の望みだったのではないか、姉とはよくそういう話をして、自宅介護という選択をした過去の父たちの判断を責めたり、そこにちゃんと介入してもっとよい選択肢を選ぶようコントロールできなかった長女や長男の不甲斐なさを自分たちで責めたりもします。
その答えをいっそ母に聞いてみたいけど、もう母には自我もなく、たまに覚醒したようになにかを喋るけれどそれは言葉としては意味を結ばず。
こんな状態がずっと続くことはたぶん誰も幸せではないから、母が少しでも早く少しでも満足に人生を終えて、私達家族を、母自身を開放してほしい、と僕はそれを望んでいます。
それを望むことは他人事ならたぶんすごく当たり前で、でも、人としてあまり褒められた感情ではないのはわかっているし、望んでしまうことがすごく悔しくもあります。
そんなことを望まされる認知症という凶悪な病気が、どうか一日でも早く、治療で治る病気になってくれたらな、と思います。
暗く救いのない話だけど、いつかこれを抜けたときのために記録として。