歳をとったことと、世の中がどんどん変化していることとが相まって、以前から感じていたことではあるけれども最近特に、世間の中での自分の居場所のようなものがなくなってしまったことを感じる。
僕は人生通じて結構前からそれを感じ続けて生きてきてはいるんだけど、それでもそれなりになにか見つけてしのいできていて、数年前に沖縄一人旅デビューをしてからは旅先を居場所のように感じて、やっと何かしっくりくる在り方を見つけたと感じていたんだけど、それも結局は通り過ぎた。
先にも書いたとおり一つはコロナで世の中の有り様と人々の意識が大きく変わってしまって、ざっくり言うと生き物として強い人が勝つ性質がより強くなったような気がしている。
やったもん勝ちという言葉は昔からあって、少なくとも自分とその周りでその価値観を是としないことを大事にして生きてきたつもりだったけど、昨今の世間はやったもん勝ち以外の何物でもなくて、「世の中そういうもんだよね」という言説を自分の手の届く範囲だけでも否定することに、前よりも大きなエネルギーが要るようになった気がする。
僕は誰も傷つけない世界で生きてたいけど、コロナ禍で加速したSNSの負の膨張はもはやそんな絵空事を受け入れる余裕もなくて、みんな自分の尊厳や利得を守ることが第一義で、それを怠るとあっという間に貶められることは少なくなくなり、その中でバランスを取ってうまく立つことを求められる。
それができない人やそれを否定して生きたい人種は少しずつ端に追いやられて、やがて輪から外されてしまう。
みんなそれが嫌で硬い鎧をまとったりハリネズミのように尖ったりしてるから、お互い接触するたび少しずつ疲弊して、世の中にどんどん余裕がなくなる負の相乗効果が発生している。
コロナで世の中のシステムは大きく変わったし、経済が弱っているのは周知の通りだけど、それで弱った市井の人々の心根の変化のほうが、今回のコロナ禍で失ったものとして一番大きいんじゃないかと感じてる。
要は世の中がいっそういぎたなくなった気がして。
誰かが辛いときに何の見返りもなく支える人がいることはとても大切で、たまに自分がその役目を負えることは自身の承認欲求や気持ちを満たしてくれるけれど、必要なくなったときにあっさり切り捨てられるのには相変わらず慣れない。
コロナ禍のせいだけではないかもしれないけれど、余裕がないとお互い傷つけ合うことも増えるからか、そういう機会はここ数年でさらに増えた。
でもこういう考えも、いついなくなっても世の中になんの影響もないポジションで生きているから感じることであって、自身が父であったり母であったりなど誰かに対して至上の責任を持つ立場になったらこんなこと考えることさえ許されないんだろうな、とも思う。
そう考えると結局自分はどの輪にも属しないで生きるしかないのだろうな、と思い、それならば、ますますいなくなりたくなるけれど、それはそれでたぶん許されない。
息苦しい。