羨望

とある住宅会社のサイトで、昔立ち上げに関わった会社(現在はこの業界では知らない人はいないくらいのランク)の社長が故郷に戻って地元の景勝地にサウナ、露天風呂付きのスーパー豪邸を立てた、という記事を読んだ。

その記事の社長はもともとはオフィスをシェアしていた隣の会社の社長で、当時から良くも悪くも少し尖った人だったから、僕は嫌いではなかったけど苦手で、いや、やっぱりあまり好きではなかった。


僕らの会社をその隣の会社と合併する話はもともとあったけれど僕が反対していて、僕が辞めたあとは反対する人間もいなくなり、僕の抜けた穴を埋める意味もあって両社はすぐに合併した。

合併後、ある企画が爆発的にバズってその界隈に広く認知されてその界隈の寵児となり、それを足がかりにとんとんと成功を続け、やがて「大手」と呼ばれるランクに這い上がった。

今では当時力を入れていたブログメディアも落ち着いて、世間的には下り坂のような印象があるようだけど、ここまでに十分すぎるほどうまく事業展開を進めて、今の社長はたぶん一生働かなくてもいいくらいの財産はすでに手に入れたと思う。


という流れで、彼は冒頭に書いた成功の姿にたどり着いたわけだけど、その姿、というかその家を見て僕は、正直それを羨ましいと感じてしまった。

そこにたどり着くのは当然だけど容易ではなく、きれいな道でもないはずで、その会社を検索する際に第二検索ワードとして「評判」とか入れると悪い評判しか出てこない。

事実僕がいた当時の社員は今現在全員辞めているし、僕がいたときの合併前の社長にいたっては合併後に会社を乗っ取られて追い出されている。(そうなることがわかっていたから僕は合併に反対していた)

合併してきた側の社員も今は全員辞めているし、新社長本人も最近の記事を見るにおそらく離婚している。

辞めて何年か後に、残してきた当時の僕の部下たちと飲む機会があって、その時点ですでに全員会社を離れていたんだけど、みんな口を揃えて「僕が辞めたあとの会社は地獄だった」と言い、「(僕)さんが居てくれたらとみんなが思った瞬間が何度もありました」と言ってくれた。

でもたぶん、僕がいたままならあの会社にあんな成功は起こらなかったし、彼らはその劣悪な環境の中で揉まれたから一定の実力もついて、今ではそれぞれ大手の制作会社に転職を果たしている。

どこかで甘やかしてしまう僕の下でずっとやっていたら、たぶん僕程度の人間さえ超えることもできず、今の僕のように業界内で右往左往して生きる羽目になっていたかもしれない。

そう考えると、長い目で見て正しいのはどっちだ?と思ってしまう。

僕は自分や誰かが嫌な気持ちになるのがすごく嫌で、誰も傷つけないように生きていたくてこういう仕上がりになってしまってる。

誰かが思うことはその人にとってはとても大事で、ひとつひとつのそれをちゃんと尊重して生きたくて、そうしてきたつもりだったけど、その生き方で誰かを幸せにできたかと考えるとそうでもないような気がしているし、まして「誰も傷つけない」ことはたぶん実現できていない。

そうすると、自分も人も傷つけてでもたくさん稼いで、一定のところまでたどり着いて方針転換すればよかったんじゃないか、なんて考える。今の僕だと誰も救えないし、誰も守れない。

自分のたどってきた道や今現在の自分の姿を誇れず、忌み嫌っていた人間の収めた成功に羨望を覚えるなんて、自分の人生の否定にほかならない。

ほんとに俺は、なにをやってるんだろう、と思う。