少し前にインフルエンザを患って、その後遺症と言うか、色んな所がちょいちょい調子悪いまま今ひとつの状態が続いていて、このまま年末を迎え、来年を迎え、再び社畜へ戻る瞬間を迎えるのかとちょっとだけぞっとしています。
来年明けからとある会社に正規に採用されることが決まってて、ほんとうに普通の社会人にとりあえず戻ります。
僕のような社会不適合者がまっとうな社会生活を送れるようになるのか、試してみないとわかんないけど、できるできないはともかく、すでにめんどくさい思いでいっぱいです。
仕事そのものはお金をもらうためだからしょうがないとしても、月給というシステムが長時間の拘束と不可避なトレードオフで、安定を得るためにはしょうがないことなんだけど、自分の選択で自由に使っていい時間が土日しかなくなるというのは、これまでの生活を考えると想像するだけで膝がガクガクするくらい息苦しくて、ここ2年位沖縄に通い詰める生活を繰り返してたこともあって、この局面でその状態をわざわざ迎えることにかなり抵抗があります。
ここ2年位の沖縄通いは僕の生活に大きな影響を与えていて、想像もしてなかったことをたくさん体験できたし、たくさんの方と知り合って様々な価値観にふれることができたし、僕が20年前に同じような体験をしていたら間違いなく完全に向こうの世界に飛び込んで、しばらく帰ってこなくなっていたと思います。
そう、「向こうの世界」と分けて考える必要があるくらいの価値観の違いがそこにはあって、東京で暮らすこの生活とは乖離した完全な自己責任文化が存在します。
東京、というか都会での生活は恐らく、一定のルールの中で他人の領域を侵さない限りはお互いに非干渉でいましょうという暗黙の了解で成り立っている世界で、それはそのルールを守って暮らす限りはとても安心で、自分の領域が侵されることも少なくて、居心地のいい世界です。
一定の自由の放棄という対価を払って安心を手に入れる世界とでも言うか、それに従って生活していればずっとそこにいられます。ルールに身を委ねて安寧に身をおいて、たまに訪れる少しだけ楽しいことを待ちつつ暮らす、安定感のある世界。
一方僕が触れた自己責任の世界は、何もかもを決めるのは個々それぞれで、それぞれのルールが合致し合う中でバランスを取ってやっていく世界でした。最低限のルールとしてあるのは人間がみんなフラットに横並びであるという事実のみで、あとはどう生きるかは全部それぞれが決めたルールでやればいいという。
他人に迷惑をかけなければ何をやってもそれは自由の範疇だし、もし迷惑をかければそれはその人個人の評価と直結して、もし嫌われたとしてもそれをちゃんと受け止めることができるなら、それさえもやるやらないの自由が保証されているとでもいうか。
だから、はた迷惑な人も普通に一定数います。でもそれとどう付き合っていくかも個人の判断であり、そのバランスが崩れている人間はいずれドロップアウトしていく仕組みが自浄作用として機能しているし、どこかでバランスが保たれていればそんな人でさえ普通に存在できていました。
でもそんな中で生きていくのは楽しいけど楽なわけではなく、また、安定とか継続とかという概念を持続しづらい傾向があります。継続してその中にいるには都会の暮らしよりも少し精神的コストはかかるし、たぶん人と違う何かが必要です。
それは人としての根源的な魅力とか人材としての力とか、単純に財力とか、そして誰でも持ってる一番単純なエネルギーとしてやっぱり「若さ」が大きいような気がします。
まあなんだかんだと言い訳して、その世界で生きることからも僕は逃げて、年明けからクソサラリーマンに戻ります。
ここ2年くらいが本当に楽しかったので、毎日判で押したような暮らしが始まり、またその中で一定以上のストレスがかかることに自分が耐えられるかがもう今から心配なんですが、耐えられなかったらもうさすがに、世の中の枠から完全に逸脱しようかなと考えています。
今までも内々にはとっくに逸脱してはいましたが、公に。
それにしてもサラリーマンってクソつまんないのに、数十年の間ちゃんと勤め上げる人間が一定数以上いるって事実に驚きます。みんなすごい。
逆にこんなんでもそろそろ半世紀生きてます。こんなに仕上がっていかない人間も珍しいような気もします。
たぶんもう、ずっとこのままですね。