昨夏沖縄一人旅をして以来、沢山の人と沢山の話をする機会に恵まれ、それは今でもある程度続いていて、さらにそれが呼び水となってかこれまでも現実でお付き合いのあった方や、インスタでお付き合いのあった方々とも色んな話をするようになって、人はみな思ってた以上に様々なことを考えて暮らしているんだと知った。
価値観は人それぞれで、少し深く話してみると知らなかったその人が見えることもあって、千差万別というか、僕が常識だと思っていたことがその人の中では違っていたり、すごく頑なだと思っていた人が実はすごく自分に近い人間だったりして、とても面白い。
あまり世間話的なことをしたことがなかったモデルさんと少し長く話をする機会に恵まれて、ちゃんと話してみると実はその人が相手によって自分のキャラクターをコントロールしていることを知った。
相手とちゃんとコミュニケーションを取ろうとすると自然とそうなるんだと言っていて、そのスタンスになんだかすごく共感して、その人のことを人間として好きになった。
若い女性と少し深く話すとだいたい話は男女間のことや、もう少し深くなるとパートナーとの性の悩みに収束していくのが常だけど、そこでも本当に人それぞれで、自分が普通に付き合ってきた女性とそういう話を赤裸々にすることはむしろ無く、語られる本音にぞっとしたり、申し訳なくなったりもする。
例えば相手と長く長く付き合って、人間として好きになればなるほど、ましてや結婚して子供ができて家族という運命共同体になるといずれ相手に性的興味がなくなっていく、というのは誰もが持っている悩みで、必ずそれは話題に上る。
性的なものを外に求めることが公式には許されていない状況でその問題にどうアプローチするのかは現状の日本においてはとてもむずかしい課題で、基本「我慢」という形でそれを夫婦やカップル間のルーティンワークと割り切るパターンがたぶん一番多い。
でも、それが苦しいと結局いわゆるレスになってそこからどうしたらいいかわからなくなっていったりする方も多い、というか結婚前からそれになっててどうしよう?なんて人もいる。そしてあっさり外にそれを求めてその部分は解消して、家庭を円満に保っている人もいる。
海外だとそれはオープンリレーションシップという概念として、万人にではないけれど、ある程度の知名度をもって受け入れられ始めている、というのを滞在中の外国の女性に聞いた。日本でも水面下ではそれが起こり始めているのは感じるけど、その話を普通に日本人女性にしたときに大抵の人は「でもそれは外国の話でしょ?」と断じるし、そもそもそういう行為が民法上の離婚事由に該当する以上、そんな概念そのものを公に受け入れる土壌が日本には無い。
一方男の場合、たくさんの人と話して感じたのは、始めからほんとにヤることしか考えていない人間が多い。たぶんその割合は女性が思ってるよりもはるかに高い。男女で接するのにそれを意識しない事自体が基本的にはありえないというのが男側の価値観としては大勢を占めてる。
そして大体の女性はそれを知ってて、そこをうまくコントロールして付き合おうとするんだけどそれでも鬱陶しいと思う気持ちはあって、相対的にとにかく話をちゃんと聞こうとする姿勢を保つ男性は貴重なので、僕のような人間はそういう界隈では重宝される。
今僕は「人の話を聞く人」として結構な人気を博していて、少し戸惑いつつ、日々色んな人の話を聞いている。話を聞いてほしい人がいるからと友達の友達を紹介されそうになることもあり、なんか変なことになってるなあと思う。
僕も根底では下心がないわけじゃない。でも自分の価値が男性性の部分ではなく男性なのに性的じゃないという部分に存するのだと自認してるからその役目を全うしようとしているだけだし、その期待を裏切るのも悪いなあと思うし、もっと言えばそこを外してしまうと僕に価値は無いのではないかという恐れに基づいて行動してるんだと思う。
でも、みんな僕をほんとに話を聞いてよさげなことを返してくれるお釈迦様のような人とでも思ってて、例えば流れで過去に浮気した話などを普通に話すと失望されたりする。僕がとことん善人でないと納得がいかないらしい。そんな人間がいるかって話だし、いるとしてもそのキャラをなんで僕が引き受けなきゃならんのかとひそかに憤ったりもする。
でも僕と話すことで誰かが少しでも救われたり、それで僕がお役に立って承認欲求が満たされるのは嫌いじゃなくて、ついそこに甘んじてしまう僕もたぶん悪い。ヤリモクですと露わにしてるわけでもないのにヤレるわけがない。それはそうだと思う。
思いつく限りでつらつらと書いてしまったけど、今僕はたくさんの方の様々な価値観の奔流に飲まれていて、帰る岸辺もよくわからなくなってきた、というのをどこかに記しておきたかった、ただそれだけです。