余命幾ばくもないと宣告された病床の父に付き添っていて、人はどの時点で生を失うのかと考える。
生命を維持する営みのいくつかを自律することができなくなり、機械や薬、世話をしてくれる誰かが居ないと生きていられない状態というのは果たしてそれを生と呼ぶのか。
まして、言葉を発することができなくなり、考えることもできにくくなり、視線の先にあらぬものを追うようになって、ただ呼吸し、心臓が動いてる状態のそれを生きていると呼び、肉親がその維持を望むのは、本人にとって意味のある行為だと言えるのか。
母の没前もずっと考えていたことだけど、今度は父が同じような状態となりまた、人生の終わりをどこだと位置づけるかはとても重要で、なのに人としての生が失われてただ生命活動が維持されているだけになってしまって選択肢に対する意思表示もできなくなり、呼吸が止まる瞬間まで呼吸を止めないこと自体に全力を注ぐのはとても非生産的で、当人にとっては残酷な行為なのではないのか。
自分も今は五体満足で、日常生活を送るのに全く問題のない健康状態を維持しているけれど、いずれそれは損なわれ、誰かに寄りかからないと生きられないフェーズが来たときに、自分ならそれが嫌だから開放してほしいとできる限り早急な死を望むと思うのに、自分の意志が何一つ反映されない状態のままたぶん生かされ、そのジレンマをコミュニケーションの断絶した薄い膜のなかで一人受け止めながら死を待ち続けることになるのではないだろうか。
そんなことをずっと考えて、ぞっとしている。
自分の死にたいタイミングでちゃんと死にたいと願う。